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文化祭イブ

はいどうも

異端と混沌とロボットと青春

長文

 放置されて何年も投稿がされていないアカウントを見ると、どこか憂いを覚える。お祭りのメインストリートではなく、そこから外れた裏参道に入り込んだような、あるいは高校文化祭のステージの影、光は当たらないけれどたしかに存在している記録係のような感覚。遠くに熱気を感じつつ、一歩一歩がしじまに吸収される感じだろうか。

 どうしてだろうかと考えた結論としては、ちぐはぐだからだろう。本来の動きのようなものがあって、みなはそれをしている、あるいはするように秩序づけられているのだが、そこから外れている。望まれる場において異端だ。

 これらはどこから生じるのか。

 それは混沌としているからではないか。混沌としているから外れ者が存在している。安定していれば外れ者はいない、知覚される前に排除されるはずだ。

 面白いことに、この混沌は時代に間隙を与え、不思議が萌芽する。美しさと共にミステリアスな一面を含む不思議が。この不思議は、それこそ不思議なことに、将来においてノスタルジアとして昇華される。

 福沢諭吉が文明開化を唱えた時代、西と東が混在する時代。子どもたちの眼は輝いていた。べつに「いまの子は~」などとペシミスティックに綴る気は毛頭ないが――。時代は行く末を考えていた。はたから見ればひどく滑稽な西洋かぶれを輩出しながら。

 人間はいつの時代も滑稽だ。胃をキリキリさせながら馬鹿みたいに日々を歩む。どのSNSを見ても、どこかに馬鹿みたいな恋愛要素を含むストーリーが漂着している。

 でも、滑稽なのはいいことだ。滑稽なのは必死だからだ。必死だからなりふり構っていられないし、滑稽になる。 

 だとしたら、冒頭の異端・外れ者に対する憂いは更新されなくてはならない。こうした者たちは、その時代性なのだ。いまを必死に生きる者たちの残った熱なのだ。外れ者たちは、時代の魅せる不思議に気づいてしまった探求者に相違ない。

 

 当たり前のように安定するなかでやがて失われる存在を、いつか振り返って「楽しかった」と言えるのだろうか。そしてまた求めるのだろうか。まるで青春のように。

 

 2017年。いまは「人間が」人間とは何かを問い直す哲学の過渡期だ。その要諦はロボットや人工知能といったものが担うわけだが。人間は考えることを強制される。僕ら人間は、とくに若い人間は考えなくてはいけない。それはもう、めちゃくちゃ必死に、滑稽と笑われながら。

 インターネットが身近になった中、「死んだ」アカウントは、関係の甘い断絶をにおわせながら今日も電脳世界を揺蕩っている。