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cislunar room

20180914 機能に犯されているのではないか

いろいろやめたらスッキリした。

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機能に犯されているのではないか。

近代以前の西洋画には、宗教の伝達機能があった。その機能は時を経てもなお鑑賞者に作用するために、その機能を美術だと感じる人にとって近現代の美術はガラクタに見える。

SNSでもリアルでもなんでもいい。腫れ物を扱うようなのに数多く交わるコミュニケーションは宗教的だ。そして主体行為の総体はシステムとなり機能となっている。単調かつ進歩がないが、互いに機能を期待する。コミュニケーションは共同体維持の礎となる。

一方で、自己慰撫のコミュニケーションも単調かつ進歩がない、無味乾燥なものになりえることは想像がつく。口承の時代に紋切り型の韻文のみが続けられたのと同じ構造だ。それは自己のシステムを維持する儀式である。

では、創造的なコミュニケーションとはなんだろうか。期待される機能を満足しないことではないか。属和音の次は主和音を置かなくてはいけない道理はない。寛容な者が怒ってはいけない理由はない。機能を脱却することが肝要ではないか。

あなたは機能に犯されているのではないか。

 

コミュニケーションは音や命に代替しうる。